「ある種の情報は、費用なしに入手可能であっても、
もしそれが信頼度に欠けるものであるなら、無視するほうが良い」− R. ハイナー
情報はあればあるほどよいような気がするのは、
他人よりも持っていることが価値であった時代があるからかもしれません。
情報過多の時代だと言われて久しいですが未だに知識があることが、
今でも知識があることが立派と考える人は多いです。
しかし、本当に必要なことは自分の資源を効率よくつかうことであり、
いたずらにすべての物事に注意を払うことではありません。
自分の資源とはなんでしょうか。
イメージしやすいのはお金や体力です。
自分の資産は有限ですから、毎日小銭を使っては貯まることはありません。
自分の体力は有限ですから、明日マラソン大会に参加するのに前日残業してはいけません。
当たり前ですよね。
ここで考えてほしいのは、注意力も同じということです。
毎日、人間は小さな決定を何百も繰り返します。
注意は、状況に関する情報を選別的に入手することであると言えます。
注意力が散漫になるのは注意力を維持する体力がかけているか、
習慣的にあまりにも多くの物事に注意を払いすぎて一つに注意を向けられない状態です。
情報はあればあるほどよいとは限りません。
ときには情報を無視することにより「できる」ことがあり、
それはしばしば、情報を入手するよりも有利になると言えます。
信頼できる情報は自分の可能性を広げたり、有利になることができますが、
信頼できない情報はこれらの情報を処理するよりも、決めたことを続けたほうが良いのです。
既に世界には多数の情報が溢れかえっており、その多くはノイズと言っても過言ではありません。
この状況下はまるで電波に乗るノイズと同様、信頼できない情報は無視するほうが良い。
信号を聞き分けることが有利かどうかは、信頼性の条件が成り立つか、
その情報を見分ける能力があるケースのみに成り立ちます。
世界には多くの情報があり、信頼できる情報はたくさんあります。
しかし、私は今それらすべてを考慮することができるだけの神のような能力は持ちません。
合理性に限界がある時に、人間は本能的に入手が容易な情報だけを入手します。
それは容易に手に入れることができるものや、自分の価値判断基準に沿ったものです。
今、ソーシャルメディアでおきていることはまさに信頼性の条件が成り立たない世界で、
自分の過去選好していたデータに基づいて情報を押し付けられているということです。
Attention(注意)を集めることで成り立つマーケティングは、
注意力が低下した人間により多くの影響を及ぼします。
そして、それを自ら意識できなければ永遠に情報が流入し続けるのです。
しかし、そこから逃れるにも注意というエネルギーが必要になります。
注意を向けるためのエネルギーが失われている状態から、
ノイズだらけの情報の世界から抜け出すエネルギーは絞り出せるでしょうか。
できる人はできる、できない人はできないというのが事実です。
意識することはエネルギーを必要とする以上、資源を利用しています。
そこから抜け出すのに必要な資源はあなたには残っていますか?