メニュー 閉じる

なぜお金を貸したり借りると利子・利息が付くの?

利子と利息の根拠というハードな問いに答える!

 

「みなさんは借金したことはありますか?」

一般的には借金をすると利息を支払う必要がありますよね。
しかし、借りたものを返すのは当たり前だとして、なぜ利息も支払う必要があるのでしょうか。

ここで利子と利息について定義を定めておきましょう。

利子とは貸し手から見た資本用役の対価として受け取る利益と言えます。
利息は借り手から見た資本用役の対価として支払う費用と言えます。

結局は見方が貸す方と借りる方で違うというだけということになります。
経済学者ボェームは利子が存在する理由について以下の3つを挙げました。

 

    1. 将来の予想所得上昇のために財に高い評価を与えられる
    2. 不確実性のために、現在財に高い評価を与えられる
    3. 現在財を生産に向けることで利益を得られる

 

1と2は時間選好の問題について指摘しており、3は資本の限界生産力に関わるポイントです。
こうして改めて利子の根拠を見てみると、
経済の前提が成長期待ができることを大前提にしているのだなぁと感じます。

なぜかと言うと、まず1、2のポイントについて、
不確実性に対する対価として現在価値のほうが高いというのは、
貸したものは今日より明日、明日より来年のほうが帰ってくる可能性が低くなるということです。

これは直感的にもわかりますよね。
変なものに使われたり、流行に乗り遅れて事業に失敗するする可能性が増えますからね。
だから先行きが不安であれば、他の人にお金を貸したくはありませんよね?

そして、3のポイントについて将来財を生産することで利益が得られるのは経済成長があるからです。
もし作ったところで誰も買ってくれず、利益が得られないような経済状況の中で、
わざわざ今資金を借り入れて利息を支払ってまで借りる人はいないからです。

結局、経済が上向きになることが期待できない社会では、
全員がお金を手元に残しておくことを優先します。

すると将来に期待してリスクテイクする借り手も存在せず、
結果的に誰も借り手がいない状況となるため利子が低下し、
最終的に預貯金に対する利息も極限まで低下すると考えられるのです。

実際にどうでしょうか?
日本ではここ何十年も金利(利息)は0%付近を彷徨っています。

 

経済学者シュンペーターは利子をどう考えたのか?

 

さて、今では経済が上手く回る限り、利子・利息が当たり前のように付くのが前提ですが、
昔の経済学者は利子をどのように考えたでしょうか?

シュンペーターは静態的経済では利子は存在しないと考えます。
静態的経済というのは次のような意味で使っています。

 

シュンペーターの経済学における「静態」(Static)と「動態」(Dynamic)とは、分析しようとする現実の経済の現象や実態の区別のことを言っています。彼は、ワルラスの「一般均衡論」をさらに進め、産出量の水準に変化が無く、生産・交換・消費などが常に同じ規模で循環している状態を「静態」、それらが変化する状態を「動態」と呼んだのです。
http://www.gyrokeieijuku.com/column_akimoto10.html

 

経済学が理論的に考える一般均衡が成立する状況は静態的経済と言えます。
現実的には、生産・分配・消費が常に一致して同じ規模で循環することはありえませんが、
数学や物理と同様問題を簡素化して考えるため、静態的経済から経済理論がスタートしています。

 

財貨のヒエラルキーの観点から見れば、生産された生産手段としての資本は
さらに高位にある労働と土地に分解されるのであって、費用としての資本用役の価値も、
過渡的な項目すなわち中間財の費用とみなされる

 

ただし、この静態的経済において生産手段としての資本を中間財として扱うというのは、
少々極端な仮定であると言えるでしょう。
これはすなわち、静態経済において利子がゼロとなるということとなります。

これが成立するのは資本に現在価値つまり時間選好が存在しないこと、
現在財の節欲が大きな将来財を生むという意味での資本の限界生産力はゼロと仮定するからです。

静態的経済ではプレイヤーが変わらず、市場が均衡するので、
別に将来に期待するとか、利益ががっぽり出るということは理論的に起こりえないのです。

後々サミュエルソンが指摘するように時間選好が存在する場合には、
投資は利子率と時間選好の差の関数であるとすると、
資本蓄積は利子率が正の時間選好率に等しくなるまで進行するため、利子率が成立します。

実際、人間の寿命は有限ですから時間選好は存在すると考えられます。
すると、ボェームの指摘する利子の存在根拠が一理あります。

 

利子はイノベーションから生まれる動的経済の利潤

 

それでは現実の動態的経済でシュンペーターはなぜ利子が生まれると考えたのか?

それは「産業的利子」すなわち産業上の新しい活動のために使用される、
貸付に対する利子という核心を持っていると考えたからでした。

そしてこの貸付金は貨幣市場から生まれ、信用創造に源泉があると見なしていました。

こうした信用創造による新しい購買力は、均衡状態を脱して、
経済発展を動的に駆り立てる最大の拍車の役割を果たすと論じています。

つまり、経済発展を担うのが企業者活動(アントレプレナーシップ)であり、
企業者利潤はこのような企業者活動への特別な余剰として成立するものであり、
利子はこれによって説明されるというのです。

企業者活動は他の労働のように市場において供給されたり、
受容されたりすることはなく、個別的に売買されるものでもないといいます。

企業者の取得するものは決して一義的に確定されたものではなく、
ある人に対するその用役の「価値」より大きいかもしれないし、小さいかもしれない。
そして、企業者所得はけっして価格ではない。なぜなら商品では無いからだと説くのです。

確かにベンチャー企業の創業者は何もないところから、何かしらの魅力を用いて、
信用を得て資本を調達し、労働力を調達し、経済活動を築き上げていきます。

既存の企業や同じように新しい活動を始める企業が存在する中で、
その働きぶりがどれだけ身を粉にしていようが、逆にすべて人に任せていようが、
すべて経済活動の結果として、数年後に価値が現れるというチャレンジングな状態と言えます。

だからこそ超過利潤を得ることができて、利息を支払うということなのです。

資本は決して、永続的な所得源泉ではなく、資本から利子が永久に生まれるのではなく、
有用な生産手段である場合にのみ価値を持つことになる。

物理的に作動する資本が経済的に陳腐化し、消滅することがあるように、
資本が永続的な所得の源として機能するかどうかは動態的な条件に依存します。

シュンペーターは資本が資本として利子を生むという前提には動態的条件を必要とし、
さらに、資本ストックから生じるのではなく信用創造から生ずるということを主張します。

利子は動態的現象であるのと同時に、貨幣的現象でもあると言うわけです。
企業者が革新を起こすことで、利子の源泉を与えるというのはシュンペーターが強調している点です。

逆に言えば既存技術のもとでの資本の限界生産力や時間選好とは異なった利子が、
動的な経済発展によって現れるということになるのです。

通常我々が利子について考えるとき、ボェームの指摘するように時間選好と、
限界生産力の側面から考えますが、企業者による革新的活動が利子の源泉という主張は、
今あらためて聞くととても新鮮でかつ、新しい視点を与えてくれます。

今の日本に(世界にかもしれませんが)欠けているのはこの視点ではないでしょうか?

 

利息を取ることを宗教で禁じられていた理由は?

 

利息が時間選好から生じるとすると、今の100円は将来の100円よりも価値があります。

これは、お金を持っている人は将来に投資するとリターンが得られる期待があるのでその分、
そして将来は何が起こるかわからないのでリスクがあるので余分に徴収する。
この2つの選好が合わさって利息となります。

しかし、お金を持っている人は誰かに貸し付けることができますが、
お金を持っていない人は持っている人から借りるしかありません。
生まれつき持つものと持たざるものがあるというのは平等ではありません。

そのことを人類は数千年も前から感じ取ったのでしょうか。例えば宗教によっては、
利息をとることを禁じているものがあります。

 

コーランには「アッラーは商売はお許しになった、だが利息取りは禁じ給うた」と綴られている。
また他の大半の宗教も、他人を搾取してはならないこと、約束は予定通りに守ることを説いている。
https://gentosha-go.com/articles/-/1514

 

こうした教えは、宗教の経典なので「理由」は説明しないのですが、
持たざるものから利息を徴収すると捉えたときに不平等という感覚があったに違いありません。

確かに生活のために事業を行うことが目的であった時代では、
その元手となる、例えば農作業の器具や種子などを購入できなければ生きることができません。
そのような状況の人からさらに利息を取るのは不平等であったでしょう。

しかし、現代では単なる最低限の生活を送るために必要な資金よりも、
より収益を拡大させるために必要とする資金のほうが大きな需要があります。

すると、現代で現実的に利息を徴収しないとどのようなことが起こるのでしょうか?
一つは「モラルハザード」の問題が生じます。

モラルハザードとは情報の非対称性から相手の行動を完全に把握できないことによって、
当初当事者間で想定されていた約束が守られなくなることです。

例えば借り手は利息を支払わなくて良いとなるとお金を借りやすくなります。
お金が借りやすくなるとついつい無駄なものを買ってしまったり、無謀な投機に参加したりします。

元々、貸す方は元本しか返してもらえないのに返さない人が増えてくるのであれば、
貸し手はなにもメリットがないのでお金を貸さなくなります。

お金が貸されなくなると、企業者のような新しい経済活動を始める人に資金が供給されません。
結果的に利息がないことで経済は衰退してしまうのです。

こうした問題を乗り越えるためにイスラム教圏で営業している金融機関、
通称「イスラム金融」では、資金の貸付で利息を取るのではなく、
借り手のビジネスに共同参画する立て付けで宗教上の課題をうまく回避しているようです。

 

まとめ

利子や利息は現代では当たり前のもののように思われますが、
その根拠としてはボェームによると利子・利息の根拠としては以下の3点でした。

    1. 将来の予想所得上昇のために財に高い評価を与えられる
    2. 不確実性のために、現在財に高い評価を与えられる
    3. 現在財を生産に向けることで利益を得られる

1,2点目は現代ファイナンス理論の現在価値(時間選好)に伴う根拠であり、
3点目は限界生産力に関する根拠でした。

またシュンペーターは利子を企業者活動への特別な余剰として成立するものと論じました。
これは限界生産力が0に到達する静態的経済からイノベーションによって、
経済が動態的に変化する際の企業者(アントレプレナー)による活動によって生じるものと言えます。

現在の経済学では主にボェームの指摘する3つの点が理論的根拠とされていますが、
シュンペーターのはより深いところで経済のあるべき姿を指摘しているように思います。

将来の経済成長が期待できない社会においては将来所得を生み出すための財の価値も低減します。
そして、不確実性により現在保有する資本にますます高い評価を与えます。

将来のための財への投資や生産活動は縮小し、同時に将来所得上昇の期待もできなくなります。
結果として借り手は存在しなくなり、利子や利息は0に到達するということになります。

誰しもそのような先の真っ暗な経済社会に生きたくはありません。
既存の企業が効率化や規模の経済を利用してますます超過利潤を手に入れるより、
ときにはプレイヤーがひっくり返るようなチャレンジングな競争があったほうが、
すべての人にとってワクワクするでしょう。

利子を手に入れるためにすべての人がお金を預けておくだけになれば、
ますます、一部のプレイヤーにとって有利な資金調達が可能になるだけになります。

一人ひとりは安定的にメリットを手に入れたいと思うのは当然ですが、
全体としてみたときに結果的に全員の首を締めるような状況は打破しなければなりません。

今の日本はこの問題を解決できずにいます。
あなたはどのようにしたら、自分はもちろん、経済全体が良くなると考えますか?